私たちは日々食事をしていますが、多くの場合、なんとなく食べ物を口に運んでいて、かむことを意識していないのではないでしょうか。この「かむ」という動作には、食べ物を飲み込みやすくして、消化管での栄養の吸収を促す役割がありますが、実はそれだけではありません。「かむ」という動作そのものが、脳や体の健康にとって重要だと、近年多くの研究でわかってきたのです。かむ力と病気や症状との相関について、神奈川歯科大学の槻木恵一教授にお話をお伺いしました。しっかりとかんで、心身ともに健やかで豊かな生活を送りましょう。
解説者のプロフィール
槻木恵一(つきのき・けいいち)
1993年、神奈川歯科大学歯学部卒業。1997年、同大学大学院歯学研究科修了。神奈川歯科大学歯学部口腔病理学教室、助手、特任講師、助教授を経て2007年より教授。2013年より同大学院歯学研究科長。2014年より同大学副学長。歯学博士。専門分野は口腔病理診断学・唾液腺健康医学・環境病理学。日本臨床口腔病理学会に所属。日本唾液ケア研究会理事長。 『唾液サラネバ健康法』(主婦と生活社)、『ずっと健康でいたいなら唾液力をきたえなさい!』 (扶桑社)など著書多数。
※本稿は『かむ力を高めると脳も体も若返る!』(マキノ出版)の中から一部を編集・再構成して掲載しています。
かむ力は全身に影響を及ぼす
多くの人が、日々、何気なく食べ物をかんで食べているのではないでしょうか。なかには、「食べ物をかむことなんて、まったく意識してこなかった」という人もいるかもしれません。
そんな「かむ」という動作には、口に入れた食べ物を飲み込みやすくする役割がありますが、それだけではありません。実は、複雑で繊細なリズム運動なのです。
そして、顔にある数多くの筋肉が連動しているだけでなく、その影響は脳や体にも及びます。ですから、見た目も中身も元気で、若々しくあるために、かむことは大きな役割を果たしているのです。
これまでの研究で、かむ力がアップすると、次の効果があることがわかっています。
❶脳内の血流が増えて、脳が広範囲にわたって活性化する。脳の発育が促され、また、認知機能が改善する
❷意思とは無関係に体をコントロールしている自律神経のバランスが整う
❸ストレスが緩和される
❹脳の満腹中枢に働きかけ、食べ過ぎを防ぐ
❺顔全体の筋肉が刺激されて、視力低下の予防につながる
❻唾液の分泌が促され、腸内環境に悪影響を及ぼす口腔細菌を減らす
❼唾液によって消化器の粘膜が保護されると同時に、肌や神経を修復する物質、そして病原体から体を守る物質が体内で増える
❽全身の筋肉をバランスよく使うことができるようになり、転倒防止に役立つ
❾いろいろな食べ物を食べられることから、栄養が偏らない。生活習慣病を予防し、健康に長生きできる
また、胸焼けやのどの違和感などが起こる逆流性食道炎は、かむ力アップでかむ回数が増え、唾液が多量に分泌されると改善につながります。
よくかむことで改善する症状
消化不良
食事中や食後に発生することが多い、上腹部の痛みや不快感です。
かむ力によって食べ物が小さくすりつぶされると、胃腸にかかる負担が軽減されるのです。こうして、痛みなどが起こりにくくなるでしょう。
さらに、よくかむことでアミラーゼを含む唾液の分泌が促されます。アミラーゼは、でんぷんを分解して糖にする消化酵素で、胃腸での食べ物の消化吸収を促進します。
逆流性食道炎
胃の内容物(主に胃酸)が食道に逆流することで、食道に炎症を起こす病気です。
早食いは胃酸過多の原因になるだけでなく、食べ過ぎにもつながります。そして、食道と胃の境目にある下部食道括約筋が緩むため、胃酸が逆流しやすくなるのです。
よくかんで食べるようにすると、食事のスピードが遅くなって満足感が得られやすくなり、食べる量も少なくなります。また、かむことで唾液の分泌が促されると、食道の粘膜が保護されます。
かむ力チェックリスト
□ 普段の食生活は、白米やパン、ラーメン、うどんなど炭水化物がメインだ
□ 食事の際に、スープなどの汁物や水をよく飲む
□ 話している言葉を、聞き間違えられることがよくある
□ 最近、転びやすい
□ 硬い物が食べにくい
□ 両方の奥歯でしっかりとかめない
リストに一つでも当てはまる項目があれば、かむ力が衰えている可能性があります。
食生活とかむ力は、密接な関係があります。パンやうどんなどは、あまりかまずに飲み込めるため、常食していればかむ力は弱くなります。また、食べ物をよくかまずに飲み込む習慣もつきやすくなります。
そして、汁物や水で食べ物を流し込む食べ方だと、かむ回数は減ってしまいます。かむ力が弱いということは、口の周りの筋肉が衰えているということ。食べ物や飲み物がうまく飲み込めずに、むせやすくなります。
そして、口をしっかりと閉じられなくなるため、口の中が乾燥します。また、筋肉が衰えれば、はっきりと発音することも難しくなるのです。
それから、せんべいなど硬い物が食べにくいのは、かむ力が弱くなっている証拠です。
また、かむ力は全身のバランスにも影響を与えるため、転びやすくなるなどの変化も現れます。そのほか、虫歯や歯周病なども、かむ力を弱めています。
かむことと関係する症状
歯ぎしり
睡眠中や無意識のうちに、歯と歯を強い力でこすり合わせる状態で、「ギリギリ」「ガリガリ」と音が出ていれば歯ぎしり、音が出ていなければ食いしばりと呼ばれます。これらは「ブラキシズム」と総称されることもあります。
実は私たちは、かむことでストレスを解消しています。ですから、ストレスがたまると、歯ぎしり・食いしばりによって発散させているわけです。その意味では、歯ぎしり・食いしばりは決して悪くはないのですが、強い力がかかり過ぎると、歯が割れたりあごが痛くなったりします。
歯ぎしり・食いしばりを軽減するには、ストレスを感じたらグミやガムなどをかんで、その都度発散させるといいでしょう。また、食事中によくかむことも、ストレス発散につながると考えられます。
顎関節症
顎関節や周囲の筋肉が痛んだリ、口を大きく開けられなくなったり、口の開け閉めで顎関節に音がしたりする症状です。
顎関節症の原因には、ストレスや体質など数多くの要素が複雑に絡んでいます。誤解されることもあるのですが、よくかんだり硬い物をかんだりすることが、顎関節症を引き起こすわけではありません。
かむときに注意が必要なのは、顎関節症になってしまった場合です。硬い物をかむと痛みが引き起こされやすいため、避けたほうがいいと指導されています。
ですから、顎関節症ではない人は、かみごたえのある食べ物をしっかりとよくかんで食べて、かむ力を向上させるといいでしょう。
顎関節を中心に筋肉が協調して動く
かむ力と密接に関係しているのが咀嚼筋(そしゃくきん)です。咀嚼筋には、側頭筋・咬筋・内側翼突筋・外側翼突筋があります。
かむ力に関係する骨格と筋肉
【側頭筋】こめかみにあり、下あごを引き上げるときに働く
【咬筋】あごの外側にあり、歯を食いしばったときに硬くなる筋肉。硬い食べ物をかみ砕くときに働く
【内側翼突筋】咬筋の内側にあり、口を閉めるときに咬筋や側頭筋と協同して働く
【外側翼突筋】あごを前に突き出すときや口を開くときに働く
例えば、私たちは空腹を感じると食べ物を手に取り、口に入れようとします。
口を開くときには側頭筋・咬筋・内側翼突筋の力が抜け、下あごがその重さで下がります。そして、口の中に放り込まれた食べ物を受け止めるために、外側翼突筋が下あごを前に突き出しています。
こうして口に食べ物が入ると、私たちは口を閉じて、食べ物をモグモグとかみ始めます。このときに、側頭筋・咬筋・内側翼突筋が働きます。
食べ物が口からこぼれるのを防いだり、口の中で食べ物を移動させたりするためには、表情筋が咀嚼筋に協力して働きます。
また、食べ物をかみ切るときには下あごが上下に動き、すりつぶすときには左右に動きます。
このように、かむという動作では、上あごの上顎骨と下あごの下顎骨をつなぐ顎関節を含め、多くの筋肉が協調して、複雑な動きをしているのです。
食べ物をあまりかまなくなれば、筋肉が衰え、脂肪が蓄積することもあります。そしてあごが変形して、見た目にも張りを失ってしぼんでしまい、老けた印象になります。すると、かみにくくなって、かむ力がさらに衰えていくのです。
かめるようになったら強くなった
顔には、表情筋のほかにも、さまざまな筋肉があります。
目の毛様体筋は、カメラのレンズのようにピントを合わせる水晶体を、厚くしたり薄くしたりする働きをしています。
この毛様体筋に、かむという動作によって刺激が与えられて、子どもたちの視力低下を防ぐ可能性があることが指摘されています。
ほかにも、かむことで結膜(白目を覆う膜)や目の周りの血流がよくなることが確認されています。
かむ力の影響は、顔だけでなく、全身にも及びます。特にスポーツの世界では、かむ力やかみ合わせがパフォーマンスに大きく影響すると考えられてきました。
私は以前に、元大相撲力士で第65代横綱の貴乃花光司さん(元・貴乃花親方)とお話しする機会がありました。
そのとき印象的だったのは、「かめるようになったら、強くなった」という貴乃花さんの言葉でした。奥歯できちんとかめるようになったら、相撲にも変化があったそうです。
かむ筋肉は全身と連動
かむための筋肉(咀嚼筋)は、顔にある表情筋だけでなく、首や肩の筋肉と連動し、全身との相互関係もあるため、スポーツ選手は一般的にかむ力が強くなっています。
かむ力で姿勢が安定
かむ力が全身の筋肉に影響を与えるメカニズムについては、まず上あごの歯と下あごの歯がしっかりかみ合うと、「かんだ」という情報が脳に伝達されます。 すると、その情報に刺激されて、脳は素早く骨格筋(骨格を動かす筋肉)に指令を出すと考えられます。
また、かみ締めることで握力が強くなり、肩・ひじを動かすときに力が出やすくなることも報告されています。
それから、安定した姿勢にも、かむ力は重要な役割を果たしています。
ぐっと強くかみ締めると、首の両脇やつけ根にある筋肉がピンと張るのがわかるでしょう。これらは胸鎖乳突筋と僧帽筋で、直立二足歩行をする人間の体を支える抗重力筋に含まれています。
このように、かむことと、抗重力筋をバランスよく使って姿勢を保つことには、密接な関係があるのです。
唾液にはさまざまな有効成分が含まれる
かむ力は、唾液の量にも大きく影響を与えます。口に入った食べ物をしっかりと、何回もかむことによって、唾液がたくさん分泌されるようになるからです。
唾液は、主に耳下腺、顎下腺、舌下腺で作られています。この3つは「三大唾液腺」と呼ばれています。最大の唾液腺である耳下腺ではサラサラとした唾液が、舌下腺ではネバネバとした唾液が、そして顎下腺では両方の性質を持つ唾液が作られています。
食べ物をかむことで口の中が刺激されたり、味蕾という味を感じる器官が刺激を受けたりすると、唾液が反射的に、たくさん分泌されます(刺激時唾液)。かむ力が高まれば、食べ物を何度もかんで食べられるようになるため、その分だけ唾液の分泌も増えることにつながるのです。
よくかむと唾液がたくさん出る
唾液は、毛細血管の中の血液が唾液腺を通過するときに作られて、口の中に送られます。
【1日の分泌量】約1~1.5L
かむ回数の減少やマスク生活などで、唾液の分泌量は減ってしまう
【1日の分泌量】99%が水分
残りの1%に100種類以上の成分が含まれている
唾液の役割は、食べ物を飲み込みやすくしたり、消化を助けたりするだけではありません。免疫力や腸内環境、そして肌と精神の状態などを改善する働きを持つ、100種類もの物質が、唾液には含まれているのです。
そのため、かむ力を向上させて唾液の分泌を増やせば、胃腸の不調やイライラから、カゼのひきやすさまで、解消できる可能性もあります。
「体質のせい」「年齢のせい」と思い込んでいた不調も、あきらめる必要はありません。
かむ力で人生が豊かになる
ここまで、かむ力のさまざまな健康効果について述べてきました。
しかし、私たちが忘れてはならないのは、食べる喜びです。
さまざまな料理を十分に味わえるようになるだけで、楽しみが増えると思いませんか。それに「今度は何を食べようか」と想像するだけで、ワクワクするものです。
このように、かむ力で人生が豊かになります。
「食べ物をかむことなんて、まったく意識してこなかった」という人も、これを機に、ぜひご自分のかむ力を見直してください。
●イラスト/めやお、川野郁代
※本稿は『かむ力を高めると脳も体も若返る!』(マキノ出版)の中から一部を編集・再構成して掲載しています。